2011年 12月 06日
八路軍で日本人と戦った父を持つ中国人(3) |
歴史の書物以外で、生身の中国人の口から「八路軍(バールージュン)」という中国語の単語を聞いたのは生まれて初めてのこと。びっくりしましたが、すぐに意味はわかり、ちょっと緊張するとともに、目が冴えてきました。
女性のお父さんは八路軍に所属していて、日本軍の兵士と鉢合わせして戦った末、片方の足を撃たれてしまい、以後、ずっと片足で不自由な生活を強いられていたそうです。
私はなんといっていいかわからず、話を聞きながら、ただ「是吗(そうですか)」という相槌を繰り返すことしかできませんでした。少しの沈黙もありました。
でも、女性はそのことで日本を恨むとか、そういう話は一切せず、その話は案外あっさりと終わりました。そして「じゃあ、寝ましょう」といったのです。
そのお父さんも数年前に亡くなり、今は家族全員、平穏で幸せに暮らしているとのこと。身なりもきちんとしていましたし、バスルームに置いている化粧ポーチもきちっと隅に寄せて、私のポーチや歯ブラシとぶつからないように配慮している、そんな方でした。
翌朝早くに置き、お互いに身支度をしてレストランに行くと、弟が待っていました。女性は弟に私のことを紹介し、3人で一緒に朝食を食べて空港に向かいました。
空港ではチケット再発行の手続きや荷物のチェックインまで全部2人がやってくれ、待合室でも日本の話になりました。日本は豊かな先進国であり、旅行で日本に行ってみたいという2人。お決まりですが、私の日本の連絡先を知りたいというので、紙に書いて2人に渡してきました。
大連の空港で別れるときには、私を国際線のところまで送ってくれて、何度も何度も手を振ってくれました。それから今日まで10年近く。一度も連絡はありませんが、今でもあの女性のことはときどき思い出します。
女性はなぜあのとき突然、私に八路軍の話をしたのでしょうか?
私なりの答えは今、心の中にありますが、ここには書きません。
ひとつ言えることは、日中間には確かに辛い過去があったということ。そして、そこからつながる命をもらった私たちが今も隣国に生きているということです。 (おわり)
女性のお父さんは八路軍に所属していて、日本軍の兵士と鉢合わせして戦った末、片方の足を撃たれてしまい、以後、ずっと片足で不自由な生活を強いられていたそうです。
私はなんといっていいかわからず、話を聞きながら、ただ「是吗(そうですか)」という相槌を繰り返すことしかできませんでした。少しの沈黙もありました。
でも、女性はそのことで日本を恨むとか、そういう話は一切せず、その話は案外あっさりと終わりました。そして「じゃあ、寝ましょう」といったのです。
そのお父さんも数年前に亡くなり、今は家族全員、平穏で幸せに暮らしているとのこと。身なりもきちんとしていましたし、バスルームに置いている化粧ポーチもきちっと隅に寄せて、私のポーチや歯ブラシとぶつからないように配慮している、そんな方でした。
翌朝早くに置き、お互いに身支度をしてレストランに行くと、弟が待っていました。女性は弟に私のことを紹介し、3人で一緒に朝食を食べて空港に向かいました。
空港ではチケット再発行の手続きや荷物のチェックインまで全部2人がやってくれ、待合室でも日本の話になりました。日本は豊かな先進国であり、旅行で日本に行ってみたいという2人。お決まりですが、私の日本の連絡先を知りたいというので、紙に書いて2人に渡してきました。
大連の空港で別れるときには、私を国際線のところまで送ってくれて、何度も何度も手を振ってくれました。それから今日まで10年近く。一度も連絡はありませんが、今でもあの女性のことはときどき思い出します。
女性はなぜあのとき突然、私に八路軍の話をしたのでしょうか?
私なりの答えは今、心の中にありますが、ここには書きません。
ひとつ言えることは、日中間には確かに辛い過去があったということ。そして、そこからつながる命をもらった私たちが今も隣国に生きているということです。 (おわり)
by keinakaji
| 2011-12-06 17:10
| 中国